徳川宗春とは

領民をアッと驚かす!パフォーマー大名

清洲越しから120年、今から290年ほど前、 名古屋の街は新しい殿様の噂で持ち切りだったのでございます。
「お国入りの時は、黒ずくめで煎餅みたいな被りもんで馬に乗ってござったんだろー」
「こねぁーだは、上から下まで真赤っかの着物で白い牛に揺られて建中寺に行きゃーた」
「わしの見たときは、身の丈ほどの長ぁ煙管ふかしてりゃーた」
「今日の祭りは、どんなコスプレでござるんか、どえりゃー楽しみだぎゃー」 とまあ、今どきのコスプレ以上のインパクトがあった個性的な殿様が宗春さんなのでございます。

倹約では景気はよーならんわ

同じ頃、江戸では将軍吉宗公が増税と質素倹約を掲げて幕府の財政再建を目指してござったのですが、お国入りした宗春さんは、倹約令などものともせず、祭りを華やかにし、歌舞伎を奨励し、遊郭も公に許可しました。芝居小屋は優に50を超えていたようでございます。当の宗春さんを題材にした歌舞伎も堂々と上演されて、なんと物分りの良いお殿様よ、と東西の役者が集まり、客が大入り、それを目指して店も集まり・・・、宗春さんの規制緩和政策は大当たり。名古屋は日本一元気な街になったのでございます。

民とともに世を楽しむ庶民目線の御三家

それでは将軍のお膝元、江戸での宗春さんはどうだったか?これがなんと名古屋と変わりなく、楽しいことが大好きで、長男の節句祝いの日などは、町人までも藩邸に入れて初代家康公からの家宝を見せたものだからさあ大変!幕府からお咎めの使者がやって参りました。ところが宗春さん、「見せて悪いなどという法は無い」「お上こそ倹約の根本をご存じない」と真っ向から反論。十九男とも二十男とも伝えられている宗春さんは監視のゆるい自由な立場で庶民の暮らしを目にしていたのかもしれません。御三家の尾張は将軍の家来ではない、天下のためなら将軍にも物申す気概のあるお殿様でございました。

臣民への慈しみと自らに科した忍耐

とはいえ、宗春さんは単なるお茶目で派手好みのパフォーマーではございません。就任に当たって大名としては最初で最後のマニフェスト=温知政要を出版されたのでございます。その内容は、人命尊重、適材適所、個性尊重、多様な価値観を認めるなど仁(=愛)に満ち溢れて今に通じる分別のある、それは素晴らしいものでございます。 その後、将軍から蟄居謹慎を言い渡されてしまった宗春さんの事績は、歴史書には残らず、代わりに作者不詳の「遊女濃安都(ゆめのあと)」という懐古録のかたちで伝えられました。わずか8年余りの短い治世でしたが、宗春さんの蒔いた種は独自の文化、経済となって花開き、当地に数々の≪いちばん≫を生み出したのでございます。